芦花公園著「異端の祝祭」角川ホラー文庫

Twitterでおすすめされていたのを覚えていて、ブックオフに売っていたので購入。読み出したら一気読みで止まりませんでした。なんだこの面白さは…
貴志祐介先生の「黒い家」や、平山夢明先生の「東京伝説」シリーズ、翻訳だと「羊たちの沈黙」などの結局一番怖いのは人間だよね系のサイコホラー小説が大好きで、幽霊がどストレートに出てくるホラー小説にはどちらかというと苦手意識があるのですが、一人称で展開される幽霊が視えてしまう描写にゾクゾクする生々しさがあり、超常的でありながら嘘くさくならないリアリティラインの引き方が見事で、途轍もない才能を感じました。
新興カルト宗教、大学の民俗学教室、闘う霊能力者、ミシャグジ信仰、探偵小説のフォーマット(謎解きの「依頼と代行」)で進行するストーリーと、私の好物がてんこもりで非常に楽しく読みました。
読了後、興奮冷めやらぬまま書店に走り、続編の「漆黒の慕情」と「聖者の落角」で買いました。非常に楽しみです。

一日一食にしたらダイエットできた

職場の健康診断での問診票に「二十歳の頃から10kg以上体重が増えていますか?」という項目がある。二十歳の頃は人生で一番痩せており48kgだったが、昨年の健康診断での計測は58kgで、就職してから初めてプラス10kgを上回ってしまった。

肉体的にも精神的にも辛いなかで勤務していた5年前には体重が50kgを割り込んでいたが、うつ病で休職してからはずっと家にいるし、抗うつ剤の副作用で食欲を抑えられず間食が多くなるしで、コンスタントに毎年2kgずつぐらい体重が増えていた。

一番体重があったころは体重60kgを超えた。体重50kgのときに買ったスーツを試しに着てみると腹回りがパンパンを通り越して、ジャケットもパンツもボタンをとめることができなくなっていてショックを受けた。

この5年間ずっと鬱症状に苦しんできたが、先月頃から調子が上向いてきたのを実感できるまでに回復してきたので、主治医に相談しながら抗うつ剤を次第に減らしている。

現在も継続して精神安定剤睡眠薬と複数の抗うつ剤を組み合わせて飲んでいることに変わりはないが、そのうちの抗うつ剤の一つであるドグマチール50mg錠を最高で1日5錠飲んでいたところを、週に1錠ずつ減らしていき、今では1日1錠にまで減らすことができた。ドグマチールは元々は胃潰瘍治療薬として開発された薬なのだが、うつ病統合失調症にも効果があることから精神科でも使われるようになった薬で、私の場合は副作用として食欲高進が強く顕れていた。ドグマチールの服薬量が減った今では副作用の食欲高進がなくなり、1日のうちでしっかり食べるのを夕食だけにしても抗いがたい空腹感に苦しむことがなくなった。

完全な1日1食生活ではなく、お腹が減れば無理せずにバナナと飴を間食として食べている。飴を一袋丸ごと食べたとしても(約300kcal)、インスタントラーメン一食(約400から500kcal)よりもカロリーは低い。

現在の体重は、56.5kgにまで落ちた。

これまでの経験から1日の摂取カロリーを1,500kcal程度に抑えれば体重が減っていくことがわかったので、このまま1日1食生活を続けていきたい。

追加

その後、食欲のゆり戻しがあり、結局元通り3食食べています。完食がなくなったので太っていくこともなき代わりに痩せもせず、体重は57kgあたりを前後しています。

チープカシオの魅力(デジタルモデル総論)

1,000円台から(高くても6,000~9,000円未満で)買えるカシオの腕時計は、俗にチープカシオと呼ばれ、その優れたデザインや正確に時を刻む品質の高さから、日本はもちろんのこと世界中に根強いファンを持つ。僕もチープカシオファンの一人だ。

チープカシオの多くは、ホームセンターやディスカウントストア、ドン・キホーテなどで、ショーケースに入れられずにパッケージのまま吊るされて売られている。

店頭価格は2023年5月現在、最も代表的なチープカシオのモデルであるCasio F-91W-1JH(ウレタンバンドのデジタル時計)で税込1,480円〜2,420円程度だ。

チープカシオには、アナログモデル、デジタルモデル、デジタル&アナログモデルの3つがあるが、私が愛用するのは専らデジタルモデルだ。

私が所有する時計の個別のレビューは別の機会に譲り、本稿ではデジタルモデルのチープカシオの魅力を紹介したい。

F-84W-1QJH 私が最初に購入したチープカシオだ
一眼で曜日・日付・時刻がわかる利便性

私は子供の頃から日付に無頓着で、今が何月なのかはさすがにわかるが、今日が何日なのかに興味がなく、日付を他人から聞かれたり書類に記入しなければならないときに分からず、それがちょっとしたストレスだった。

これまで日付を確認しなければならないときは、いちいちiPhoneをポケットから取り出して確認していたが、チープカシオを身につけ出してからは左手首を見るだけで瞬時に曜日・日付・時刻が分かり、この利便性はもう快感だ。ストレスフリー。

曜日・日付・時刻の表示の機能に関してデジタルモデルが優位なのは、次の2点だ。

・日付窓を備えたアナログモデルだと、二四六九士の月の朔日にカウンターを「1」に合わせる操作をしなければならないが、デジタルモデルではオートカレンダーとなっているので日付を調整する必要がない(デジタルモデルでも、一部モデルを除いてうるう年のときだけは日付調整が必要)。

・一部のデジタル&アナログモデルだと、アナログの長針・短針が、日付・曜日のデジタル画面を隠してしまう時間帯があり、視認性に欠ける。

時刻表示モード以外には、アラーム、時報(毎時0分にピピッと鳴る)、ストップウォッチ(ラップ機能付き)、時刻調整がある。操作はどれも直感的で簡単に使いこなすことができる。機能面では40年以上前のデジタル腕時計と比べて何も変わっていないのだが、逆に言えば40年以上も変わる必要がないほどの高い完成度を誇り世界中で愛用されているガジェットだと言える。

クラシカルで飽きのこないデザイン

文字盤は黒色のベースに濃紺の縁取りがされ、白・赤・緑・黄の差し色の配色が洗練されていて美しい。デザインとして統一感がありながらも、それぞれのモデルに個性があるので、気分によって付け替えるのが楽しい。

細い手首にも馴染む小ぶりなサイズ感とケースの薄さ・軽さ

私は身体が小柄で手首も細く、一般的な男性向けの腕時計だとサイズが大き過ぎて似合わないので、時計店のディスプレイでごついG-shockをみるたびにもう一回り小さければ買うのにな…かといってもbaby-Gにも欲しいモデルがないし…と常々思ってきたがが、そんな要望に応えてくれるのがチープカシオだった。

デジタルモデルの利点は、そのケースの薄さにある。その中でもムーブメントの593番が採用されているモデル(私が所有するなかではF-84W、A158W)は特に装着感が軽く、着けていてストレスがない。

究極のメンテナンスフリー(耐防水性、耐振動性、長寿命、月差±30秒)

私は自動巻の機械式腕時計も一本だけ持っていて、機械式腕時計も大好きだ。チチチチと秒針が小刻みに滑らかにすすんでいく様子を眺めていると、とてもリラックスした気分になる。仕事が立て込んで泣く泣く休日出勤したときでも、誰もいない物音一つないオフィスで仕事をしていると機械式腕時計からほんの微かに時を刻む音が聞こえてきて、なんとも心地よく仕事に集中することができた。ただ、機械式腕時計はゼンマイと歯車で動いているのでどうしても衝撃や振動に弱い欠点があり、日常生活の場面でも機械式腕時計をつけたまま自転車に乗ってデコボコ道を走るのは躊躇してしまう。

一方、日常生活でチープカシオを着けていて、壊れてしまったらどうしようと思ったことは一度もない。自転車に乗る程度の振動は無問題。水に沈めても壊れない。磁石をくっつけても狂わない。その上、電池寿命が約7年である。大事に使っていて壊れても、その時はまた買い直せばいいだけだから修理の必要もない。

月差の公称は±30秒となっているが、実際に使用してみると月差±10〜20秒程度であり、分単位での時刻の正確さを気にする人であっても月に一度だけ時刻合わせをすればいい。

チープカシオは何の気兼ねもなしにガシガシ使えて、一切のメンテナンスが不要な、まさに究極のメンテナンスフリー腕時計である。

価格以上の価値と満足感

もし私が億万長者で、自分専用の腕時計をオーダーメイドで開発できるとしたら、次のようなオーダーをつけるだろう。

  1. 曜日・日付・時・分・秒のみが表示される(日付・時刻を確認する行為において、これら以外の情報はノイズでしかないので、その他一切の表示は不要)
  2. 装着感がないぐらい薄くて軽い
  3. 日常的な手入れや時刻合わせが不要
  4. シンプルで飽きのこないデザイン

つまり、私が腕時計に対して求めるオーダーの全てをチープカシオは満たしているのだ。チープカシオ万歳!

ゼロ年代におけるオタクの思索と実践の継承

この4年間程どん底だった私のうつ病の調子が、2023年4月下旬ごろから急激に回復しつつあり、色々なことに挑戦したいという意欲が湧いてきている。

あれもしたい、これもしたいという焦燥感と好奇心とがないまぜになった気持ちになっていて、これほど浮き足だっているのは、第一志望の大学学部に合格したゼロ年代後半の頃以来かもしれない。

東京から遠く離れた田舎の高校生だった頃の僕は、宮脇書店で平積みとなっていた東浩紀先生の「動物化するポストモダン」を読んで、これからの日本の思想的支柱となるのはこれまで社会から虐げられてきた我々オタク階級たちだ!と鼻息を荒くした。

私も一端のオタクであると自認する以上、オタク=知識階層としてのノーブレス・オブリージを果たすべく大学人として積極的に学問を修め、学問的見知から実践的に提言・行動するインテリ文化人になりたいと思ったものだ。そんなゼロ年代の頃の高揚感を懐かしく思い出している。

今私がやりたいことは、幸いなことに、私一人でできることばかりである。現在のやりたいことの優先順位は次の通り。

  1. 英語を話せるように学び直す(一億人の英文法・duo3.0・英単語の語源図鑑・速読英単語)
  2. ブログ・エッセイ・小説を執筆する
  3. 法思想史を学び直す(田中正人著 箱庭西洋史福田歓一著 政治学史→ カールポバー著 新訳 開かれた社会とその敵)

小沢健二「天使たちのシーン」の歌詞の考察

www.youtube.com

 

小沢健二天使たちのシーン」。小沢健二で僕が一番好きな曲だ。

この13分37秒を聞くたびに、様々な心象風景が苦しいほどの感傷とともに胸にせまってくる。

このブログの記事が小沢健二さんに届くことはないだろうが、地方都市に住む30代の男が、この美しい曲が描き出す世界に何度も何度も心を救われたことを文章として残しておきたい。

こう解釈するのが正解だとか、小沢健二さんの作詞の意図はこれだとか言うつもりはまったくない。あくまでも個人的な解釈である。

海岸を歩く人たちが砂に 遠く長く 足跡をつけてゆく

過ぎていく夏を洗い流す雨が 降るまでの短すぎる瞬間

波打ち際で冷たい海水に足を浸すとき、この瞬間に世界中でいったい何人の人が僕と同じように海岸を散歩したり、泳いだりしているのだろうと考える。すべての海はつながっている。膨大な量の海水が、いったいどれほどの量の生命を包み込み支えているのかに思いを馳せながら、いつも海岸を後にする。夏を洗い流す雨は、生命を包み込む海へと流れていく。

真珠色の雲が散らばってる空に 誰か放した風船が飛んでゆくよ

駅に立つ僕や人混みの中何人か 見上げては行方を気にしている

この飛んでいく風船の色はなんとなく赤で、風船は小さな女の子が持っていたような気がする。

喧騒の人混みの中、小さな女の子の手から飛び立った赤い風船は、夕焼けがせまる夏の午後の光のなかをどこまでも上昇していく。

「僕」は「人混みの中何人か」の他者もまた、風船を失った女の子の悲しみや、飛び去ってゆく風船の行方に心を馳せて、優しくどこか切ない気持ちを抱いているのではないかと想像を働かせる。

「僕」は、ふわりと風に運ばれて遠ざかる赤い風船越しに、温かい心で他者と互いに分かり合うことができる可能性を感じ、孤独を抱えた心が少しだけほぐれていく。

いつか誰もが花を愛し歌を歌い 返事じゃない言葉を喋り出すのなら

何千回ものなだらかに過ぎた季節が 僕にとてもいとおしく思えてくる

文章どおりに解釈すれば、「何千回ものなだらかに過ぎた季節」は、「僕」にとっては永久に「いとおしい」ものだとは思えないのだろう。なぜならば、「いつか誰もが花を愛し歌を歌い 返事じゃない言葉を喋り出す」という仮定が満たされることはありえないからである。(もう一歩踏み込んで具体的に言えば、人類の誰もが自然の美や芸術を尊び、クリエイターとなって唯一無二の(ベンヤミンのいうアウラを備えた)言葉・作品を発信するようになる、という仮定は根源的に実現不可能なものである。)

全体主義のもとでの付和雷同や、他者への寛容さを欠いた思考停止に陥らずに、人と人が思いやりコミュニケーションを成立させることのどうしようもないほどの困難さを「僕」は受け止めている。

「僕」は、生きづらさを抱えながらも、なだらかに過ぎてゆく季節をやり過ごして生きている。

愛すべき生まれて育ってくサークル

君や僕をつないでる緩やかな止まらない法則(ルール)

「サークル」=「世界」※は、「法則(ルール)」に従って繰り返される。(※歌詞中の「サークル」は、英単語の原義に近い意味で「循環する完全な宇宙」とか「永遠回帰する世界」と言い換え可能だと思う。以後は単に「世界」と表記する。)

繰り返されるメロディは、繰り返しなだらかに過ぎてゆく季節のように、繰り返す「世界(サークル)」の実相とそれを統べる「法則(ルール)」のメタファーとなっている。

「君」とは誰をさしているのか、色々と解釈ができるが、「いままさにこの曲を聴いているあなた」のことをさしているのだと思う。「僕」は「いままさにこの曲を聴いているあなた」に向けて直接メッセージを語り始める。

大きな音で降り出した夕立の中で 子供たちが約束を交わしてる

突然の夕立に濡れるアスファルトから、湿った雨の匂いが沸き立つ。無邪気に公園で走り回って遊んでいた男の子たちは夕立に降られ、口々に明日の遊びの約束をしながら傘も持たずに急いで家路についている。

この心象風景には、この「世界」の観測者である「僕」という存在が、この世界の一部でありながらも「世界」から切り離された孤独な存在であるという感覚が伴う。量子力学の観測者効果では、観測する行為が観測対象に影響を与えるとされるが、観測者である「僕」が観測対象である「世界」に対して与えることができる影響は皆無に等しく、「僕」の存在は降り出した夕立がかき消した陽炎のように儚い。

金色の穂をつけた枯れゆく草が 風の中で吹き飛ばされるのを待ってる

真夜中に流れるラジオからのスティーリー・ダン 遠い町の物語話してる

 

枯れ落ちた木の間に空がひらけ 遠く近く星がいくつでも見えるよ

宛てもない手紙書き続けてる彼女を 守るように僕はこっそり祈る

季節は晩夏から秋へとうつろう。

深夜、ラジオの電波塔から発せられた電波は、星空の輝く秋の乾燥した冷たい空気を伝播するうちに磨かれて澄み渡り、クリアな音質となって「僕」の部屋のラジオに届く。

「彼女」は、「僕」のおもいびとであるが、恋人関係にはない。「彼女」は、「僕」以外の誰かに愛を向けていることを「僕」はよく知っている。「守るように僕はこっそり祈る」ことが、「僕」の「彼女」に対する愛のかたちである。先述した「僕」と「世界」の関係と同様に、「僕」と「彼女」の関係においても、「僕」は単なる観測者に過ぎず、「僕」が「彼女」に対して与えることのできる影響はゼロではないかもしれないが限りなく皆無に近いことが示されている。

愛すべき生まれて育ってくサークル

君や僕をつないでる緩やかな止まらない法則(ルール)

冷たい夜を過ごす 暖かな火をともそう

暗い道を歩く 明るい光をつけよう

「僕」と「君=この曲を聴いているあなた」にとって、この世界は「冷たい夜」であり、「暗い道を歩く」ように日常をやり過ごさねばならない。

だが「僕」には、冷たい夜に焚き火で暖をとるようにして、暗い道を懐中電灯の光を頼りに歩くようにして、生きていく意思がある。「僕」は、願わくば「君」にも、生きていく意思を持ち続けて欲しいと願っている。

毎日のささやかな思いを重ね 本当の言葉をつむいでる僕は

生命の熱をまっすぐに放つように 雪を払い跳ね上がる枝を見る

「毎日のささやかな思いを重ね 本当の言葉をつむいでる僕」は、前述の歌詞にあった「花を愛し歌を歌い 返事じゃない言葉を喋る」存在、つまり、唯一無二の言葉・作品を創造するクリエイターである。

厳しい寒さのなかでも命を絶やすことなく、静謐に、しかし力強く生き続ける木々のたくましさにクリエイターである「僕」は勇気づけられている。

太陽が次第に近づいてきてる 横向いて喋りまくる僕たちとか

甲高い声で笑い始める彼女の ネッカチーフの鮮やかな朱い色

太陽が西に沈みゆき、地面に「僕」と喋りまくる友人の影を落とす。再び永い夜を迎えるモノクロームの世界のなかで、「僕」にとって「彼女」の存在は、そのネッカチーフの朱色のように鮮やかで特別なものである。

愛すべき生まれて育ってくサークル

気まぐれにその大きな手で触れるよ

長い夜をつらぬき回ってくサークル

君や僕をつないでる緩やかな 止まらない法則(ルール)

「気まぐれにその大きな手で触れる」の「その」は、指示語として「サークル」を受けている。では、気まぐれに「サークル」の「大きな手で触れる」とは、どういう意味だろか。

これまでの論考では、歌詞の「サークル」は世界の意味で捉えていたが、ここではもう一歩踏み込んで「一神教の神が統べる世界」や、単に「一神教の神」の意味であると考えてみたい。つまり、「気まぐれで大きな手で触れる」のは神の見えざる手であり、触れられるのは我々一人ひとりの人生である。

「僕」は生きにくさを抱えて「冷たい夜を過ごし」「暗い道を歩く」ように人生を送っている。そんな「僕」の存在を、神は見守ってくれていると「僕」は信じたいと願っている。

涙流さぬまま 寒い冬を過ごそう

凍えないようにして 本当の扉を開けよう カモン!

月は今 開けていく空に消える

君や僕をつないでる緩やかな 止まらない法則(ルール) ずっと

神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように

にぎやかな場所でかかりつづける音楽に 僕はずっと耳を傾けている

耳を傾けている 耳を傾けている wow wow(終)

「神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように」という歌詞は、生きづらさから希死念慮を抱えながらも、それでも神の愛の存在を信じて前向きに生きようと懸命に足掻く人間にしか書けないと思う。神様へのまっすぐなラブレターに胸を締め付けられる思いがする。

「にぎやかな場所でかかり続ける音楽に僕はずっと耳を傾けている」という締めくくりの歌詞からは、観測者である「僕」は、観測対象の「世界」や「彼女」に対して限りなく無力であるかもしれないけれども、それてもクリエイターとして人生を肯定的に受け止めて生きていく姿勢が示されている。

手塚治虫文庫全集 鉄腕アトム(1)

鏡光膜にSFセンスをビンビン感じる。たった一コマで遥かに進んだ科学技術水準を説明できていてすごい。

小学生の頃、鉄腕アトムを繰り返し読んだ。アトムの賢く優しい心と、どことなく少女寄りの中性的なビジュアルに憧れた。

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鉄腕アトム(1) (手塚治虫文庫全集)

鉄腕アトム(1) (手塚治虫文庫全集)

 

 

とりあえずやりたいこと

・ブログ更新用に安っすいデジカメ(SDカード式)を買う。iphoneからだと面倒。

・近くの公立大学の図書館が学外者の利用をコロナ対策で制限していたが、2023年5月8日をもって学外者利用制限解除となったので、Macbook Airを持って行って小説を書きに行ってみる。

京極夏彦先生の百鬼夜行シリーズを読破する。

 エンタメ小説読みとしての私の骨格は、京極夏彦先生と平山夢明先生によって鍛えられた。以下、各小説の思い出を振り返る。

 姑獲鳥の夏(再読済。人生で最低5回以上は読み返している。初読は高校生のころで、当時から大好きだった。東京から遠く離れた田舎の高校生だった私は、探偵・榎木津礼二郎薔薇十字探偵社を構える古書の街神保町に強烈な憧れを抱き、親に無理を言って東京の大学(といってもキャンパスは東京都内ではなかったのだが)に進学することに決めた。)

 魍魎の匣(再読済。こちらも初読は高校生のころ。前作となる姑獲鳥の夏からの物語の接続・展開の仕方が見事で、個人的な印象ではあるが姑獲鳥の夏魍魎の匣は2作セットでひとつながりの作品だという意識が強い。こちらも5回ぐらいは読み返している。)

 狂骨の夢(再読済。高校生のころに本作を読んで精神分析という学問(でいいのか?)があることを知り、衝撃を受ける。医学部に進学して精神医学を学んで精神科医になりたいなぁ…と当時高校生の夢見がちな私は考えたのだが、時すでにおそく既に文系に進んだ後だったため、サイコドクターとなる夢を諦める。それでも精神分析への興味関心は尽きず、一時期は文系でも受験できる心理学科に進学しようと考えていた。)

 鉄鼠の檻(再読済。この作品まで高校生のときに読んでいる。子供の頃から仏教に関心があったので、登場人物が坊主マシマシな本作をかなり熱中して読んだ。またしても夢見がちな高校生だった頃の私は、後継の男子がいないお寺のかわいい娘さんと結婚して、婿入りして僧籍を得て、ひねもす読経や修行をして暮らせたらいいなぁ…とも考えていた。)

 絡新婦の理(初読済。高校生のころの受験勉強が忙しくなり、人物の相関関係の複雑さにお手上げとなり途中で挫折。以後、進学→学究→就職活動→激務→結婚→激務&育児となんやかんやと気ぜわしい日々が続き、30代後半の現在に至るまで手を出せないでいたが、第1作の姑獲鳥の夏から刊行順に百鬼夜行シリーズを読破することを2023年3月に決意し実行。現在私は病気休職中の身であるのだが、このところ心身の調子が向上しつつあり、十数年前に挫折した小説を読破できたことに深い達成感をおぼえた。)

 塗仏の宴ー宴の支度、宴の始末(初読済。姑獲鳥から絡新婦に至るまでの伏線回収がすごい。読み進めるごとに登場人物がたくさん出てきて人物相関関係も複雑極まり、なんども挫折しそうになったがぐっと耐えて読み進めると、解決編でシンプルな構造が解き明かされ諸々納得がいった。)

 百鬼夜行ー陰(初読済。最後の短編、関口巽先生主観で書かれた「川赤子」は第1作・姑獲鳥の夏直前の時系列の話で、百鬼夜行シリーズのエピソードゼロとしてマニア心をくすぐられた。)

 百鬼徒然袋ー雨(現在、初読中。本作には京極堂こと中禅寺秋彦は出てこないとなぜか思い込んでいたが、主要メンバーの関口・中禅寺・榎木津・木場は全員出てくる。榎木津礼二郎の台風の目となり周囲をひたすら撹乱しながらストーリーが展開していくが、お話としてきっちり収斂させる京極先生の筆力に思わずうなる。「瓶長 薔薇十字探偵の鬱憤」に出てくる亀の千姫がかわいい。)

 今昔続百鬼ー雲(未読)

 陰摩羅鬼の瑕(未読)

 百鬼徒然袋ー風(未読)

 邪魅の雫(未読)

 百鬼夜行ー陽(未読)

 今昔百鬼拾遺ー月(未読)

・お仕事関係の本を読んで勉強する